CROSS REVIEW 1
『聴き手の能動性を促す作品』
文 : 高岡洋詞
「あ、これって山頭火じゃん」
冒頭、“夏の肖像” の「その後ろ姿もしぐれてゆくか」という一節に耳がそばだち、次の瞬間、種田山頭火のこの句を引用した山上たつひこ『がきデカファイナル』の最後、雲水姿のこまわり君が歩き去ってゆくコマが脳内に甦った。
『幻燈』はヨルシカの音楽アルバムであると同時に加藤隆の「画集」である。CDは付属せず、絵にスマホをかざすと当該曲が聴けるという。デジタル配信版で聴けるのは25曲中10曲だけで、あくまで「完全版」は画集である。僕は音源しか聴いていないから音楽主体に捉えているが、購入した人にはまず絵画が目に、次いで楽曲が耳に入ってくることになる。主役は絵なのか、音楽なのか。その軽い混乱が心地よい。

“雪国” “月に吠える” “451" “又三郎” “アルジャーノン” など、モチーフとなった作品名をそのままタイトルに戴いた曲ばかりでなく、随所に「あ、これって……」と記憶をくすぐるフレーズが出てくる。冒頭で言及した山頭火の句の他にも、例えば “チノカテ” には寺山修司『書を捨てよ町へ出よう』の引用があるし、“靴の花火” は宮沢賢治の『よだかの星』、“さよならモルテン” はセルマ・ラーゲルレーヴの『ニルスのふしぎな旅』をそれぞれ下敷きにしている。
以下はいささか妄想めくが、 “都落ち” には『万葉集』など平安文学のイメージが浮かび、 “パドドゥ” では芥川龍之介の『舞踏会』、 “いさな” からはC.W.ニコルの『勇魚』やアーネスト・ヘミングウェイ『白鯨』、さらには世界各地で語り継がれる人魚伝説を連想した。ほかにもリファレンスは数多あるだろうし、今後も聴くたびに「あ、これって……」は増えていくはずだ。
ヨルシカの真意はインタヴューなどで明かされるだろうが、こうしたあえていえば「二次創作」的な手法は、かつて『盗作』と『創作』で提示した「創作とはなにか。独創性とはなんなのか」という大上段的な問いかけを、さらに敷衍した試みといってもいいかもしれない。入力がなければ出力はない。最近インタヴューした装丁家の川名潤氏も、ブックデザインを二次創作になぞらえていた。
バックグラウンドのある作品は懐の深さを備え、鑑賞者の能動性を促す。いわゆる「考察」に精を出す人もいるだろうし、僕のように呼び起こされた記憶を頼りに書棚を探る人も、視覚情報と聴覚情報を共感覚的に往来する人も、それこそ多大な示唆を得て自分なりの二次創作に踏み出す人もいると思う。『幻燈』はそれを奨励する作品なのだ。
実はアルバム単位でしっかり聴いたのは本作がはじめてなのだが、n-bunaのいまどき少々ヘヴィなほどアーティスティックな問題意識と純粋な創作姿勢には、どうしたって好感を抱いてしまう。末筆になるが、第2部『踊る動物』の久石譲を連想させるインストゥルメンタル群も映像喚起的ですばらしい。

高岡洋詞
フリー編集者/ライター。2022年はルークトゥン(タイ東北部イサーン地方の大衆音楽)をよく聴いた。インタヴュー対象がいよいよ音楽に限らなくなってきました。
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